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2006/01/05

”コミュニケーションの便利さ”と”想う力”

ついに逝ってしまったmy携帯電話。

バイクから何度も落としたり、軽く水に濡れてもなんとも無かった。

しかし今回はさすがにダメだった・・・。

母の誕生日に家族で温泉に行き、皆で浴衣で足湯に浸かり写真を撮ろうとした。

弟が首から僕の携帯電話を下げていた。そして彼がカメラのセッティングをしてかがんでタイマーをセットしてこちらに向いた瞬間・・・アレ?なんか携帯電話からポタポタと水滴が・・・。

かがんだ瞬間、携帯電話も足湯に浸かったのね・・・。寒いからね、しかも傷だらけだから、湯治したかったんだね。

という訳で画面はつくし、着信もするが、全くボタン操作が効かないのである。メールが来てるのは分かるが見れず、「着信あり」と画面には出るが、”誰から”なのかさっぱり分からない。

最近では携帯電話症候群といったものが蔓延してるという話を聞いた事がある。

携帯電話が失くなったり、壊れたりすると不安になったり、不安定な精神状態になるそうだ。

僕が高校生の時はまだ携帯電話なんてなかった。彼女に電話するのも親の目を気にしながら家からしたものだ。

誰もが携帯電話を持つようになってからは、”携帯電話をもっている”事が大前提なのであり、もし着信があったり、メールが来てるのになんらかの返答をしない場合は(失礼なヤツ)と思われてしまう。

友達から着信があったらどうしよう?返さないと自分の人格が疑われるのでは?とか、彼からメールが来てるはずなのに返さないとマズイ・・・。

なんてトコロから症候群なんて生まれてるんだろうな。

でも考えてみれば、わずか約170年前に生まれた電話。その前までは手紙が全てだったのだ。

離ればなれに暮らす大事な人に対しては手紙を書き、思いを込める。

そして強い”想い”という気持ちでその人と繋がろうとしていた、はずである。

連絡やコミュニケーション方法が便利になり、簡単になるほど、そういった”想う力”って希薄になってしまってるんではないかなーと思った。

正直、「携帯が使えませーん!!」と言ってしまって、連絡が取れなくなる事が周知の事実になると”何か”から解き放たれた気持になる。

もちろんメチャ不便ではあるのだが。

まぁこんな事を書きながらもちょっと落ち着かない気持ちで(明日携帯電話ショップに行かなきゃ・・・)と思ってもいる僕もきっと症候群にかかっているのだろう。

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